歓喜寺
明恵上人の生誕地に近接して建つゆかりの寺院です。
寛和2年(986)恵心僧都源信が創建したと伝えられ、明恵上人の高弟喜海が建長元年(1249)湯浅宗氏の協力を得て再興しました。
重要文化財の地蔵菩薩坐像や阿弥陀如来坐像の他、伝明恵上人坐像、明恵所用と伝わる礼盤など上人ゆかりの品が伝わっています。
本堂の脇に建つ下品堂は、和歌山県の指定文化財です。
明恵上人
明恵上人は鎌倉時代に活躍した高僧で、釈迦を親と慕い、実践を重んじて、ただひたすらに仏の道を究めようと厳しい修行を重ねました。名誉や利欲を離れ、純真無垢に生き抜いたその生涯から、生涯不犯の唯一の清僧とも呼ばれています。
明恵上人は承安3年(1173)正月8日、紀伊国在田郡石垣庄吉原村(現在の有田川町大字歓喜寺)において、父平重国と母湯浅宗重の娘の間に生まれました。8歳にして相次いで両親を失い、孤独の身となった明恵上人は、9歳の時叔父の上覚をたよって京都神護寺に入門し、そこで真言や華厳の教えを学びます。その後16歳で出家し、僧名を明恵坊成弁(後に高弁)と名のり、僧としての生活が始まります。
京都高雄の地を本拠とし、山中で修行に励むことが多かった明恵上人ですが、当時の荒廃した仏教に失望し、世俗を離れて仏法の奥義を極めるために23歳の秋頃から故郷の有田へ戻り、34歳頃まで頻繁に京都と郷里を行き来しながら修行修学の日々を過ごしました。最初の修行地であった白上峰(湯浅町栖原)では、俗念払拭の決意を示さんと、仏眼仏母像の前で自らの右耳を切り落とすなど、その修行は激しいものでした。郷里で修行に明け暮れた青年期には、多くの著作を著すとともに、釈迦を偲ぶ涅槃会を始めました。また、釈迦の思慕へのあまり、2度にわたってインドの釈迦の遺跡を巡礼しようと渡航を計画しましたが、いずれも春日明神の託宣や病等により断念せざるをえませんでした。
建永元年(1206)34歳の時、後鳥羽上皇より京都栂尾の地を賜り、高山寺を創建しました。明恵上人は一宗一派の祖師になることを望まず、布教活動は行いませんでした。数多くの著作を著し、優れた弟子を育て、戦災で身寄りを失った女性の救済なども行い、本来あるべき姿の仏教、あるべき姿の僧を求め続け、生涯その姿勢を貫きました。その一挙一動が自然と人々に感銘を与え、後鳥羽上皇や北条泰時をはじめ多くの人々の帰依を受けました。説戒の際には、明恵上人を慕う群集が集まり、説法できないほどであったと言われています。
鎌倉時代の仏教に、新たな息吹を吹き込んだ明恵上人は、寛喜4年(1232)弟子達に見守られ、我、戒を守る中より来るという最後の言葉を遺し、高山寺で60年の生涯を閉じました。明恵上人が亡くなられた時、天台座主であった良快は当世は明恵上人のごときを聖人と言うべしと述べており、明恵上人がいかに高僧であったかが伺われます。
住所 | 有田川町歓喜寺159番地 |
電話番号 | 0737-32-3425 |
交通アクセス | 阪和自動車道有田ICより国道480号線を高野山方面へ車で約20分 |